映画「ボヘミアンラプソディ」を観て感じたこと

映画のタイトルと同じ題名を持つの歌。

フレディ・マーキュリーという一人の半生を映画にした作品、「ボヘミアン・ラプソディ」を観て来た。
https://youtu.be/H7umx1jgkoQ

公式インスタグラムから拝借しました!ゴールデングローブ賞にノミネート、素晴らしい!


映画のタイトルと同じ題名を持つフレディ作詞作曲の歌、

「ボヘミアン・ラプソディ」

その歌詞は、こう始まる。

Is this the real life

Is this just fantasy

Caught in a landslide

No escape from reality

「ボヘミアンラプソディ」歌詞

これは現実だろうか
これはただのファンタジーだろうか
土砂崩れが襲いかかってきた
所詮、現実からは逃れられないのさ

フレディ・マーキュリーは、どんな現実から逃れたかったんだろうか?

  • 映画「ボヘミアンラプソディ」について

「ボヘミアンラプソディ」という映画は、45歳で他界したイギリスのロックバンド、QUEENのヴォーカリスト フレディ・マーキュリーの半生を追った、事実に基づいている半ドキュメンタリー作品である。
QUEENが結成されるところから、最高のパフォーマンスだと称される1985年のアフリカチャリティ野外ライブ、LIVE AIDのステージまでを創作や誇張も交えて、再現されている。
キャスティングは、本当にお見事なほどに本人らをかなり忠実に再現していて、特にギターのブライアン・メイは、本人とうり二つの双子にしか見えない。

そして、何よりも素晴らしいのは、LIVE AIDのステージを現存する記録動画と寸分違わずに、衣装も細かな演技も、ピアノ上に置かれていた飲み物の量や位置すらも全て再現していたこと!
ウォーリーをさがせ以上に、あの再現シーンは粗を見つけられないくらい、パーフェクトに作りこんであった。そして、当時の衛星中継を見た友人曰く、放映されたときに映った、足をぶらぶらさせてたスタッフのしぐさもカットせず再現していたらしい。それを知って、ますますこの映画の製作チームを尊敬する次第です。

映画の評価も非常に高く、私よりも年下のQUEENを知らない世代にも、彼らの音楽や個性を知らしめる重要な役割を担ったと思う。

でも、そんなありきたりの感想を書きたい訳ではない。

セクソロジスト目線の雑感

  • 純真オトメな映画版フレディ・マーキュリー

女装子を数多く見て来たセクソロジストとして、物申す。

今回、監督が意図したフレディ像というのは、
「迷子の子猫ちゃん」だったのではないかな?と思う。
ネタバレになるが、一番最初に「迷子の夢見がちな子猫ちゃん」フレディの要素を感じたのは、生涯のソウルメイト、メアリーへのプロポーズシーンでの表情。あのシーン、思わずつぶやいてしまった。

「オトメだ。オトメがおる。あれはクィーンでもプリンセスでもない、オトメだ。」

人によっては、感動のシーンだったと思うが、私の中のオトメ男子センサーが発動した瞬間だった。監督の指示なのか、フレディを演じた主演俳優のルックスが醸し出した私の勝手な連想なのか。
ともかく、それ以降のフレディが「自分大好きなオトメ子猫ちゃん」にしか見えてこなかった。キングのコスプレしてても、ゲイクラブに繰り出しても、髭を生やしても、あふれんばかりの純真なオトメ感。
それが監督の意図したこの映画でのキャラ設定であれば、素晴らしいし、主演のラミ・マレックの演技力にも拍手と称賛を送りたい。
もちろん、天国にいる本人は、あんな純真オトメではなく、もっとプライドの高い女王様だっただろうけれど。

  • フレディ本人への個人的見解

フレディのセクシャリティがどのタイプだったのかは、天国にいる本人にインタヴューしなくてはわからないけれども。
いろんな性的嗜好を持つ人たちを見て来た私が、この映画の後に動画や写真から判断するフレディ・マーキュリーは、おそらく、スイッチと呼ばれるセクシャリティだったんじゃないかな、と思う。スイッチというのは、電気のスイッチのようにオンオフ入れ替わるセクシャリティ。
分かりやすく言えば、攻めも受けも出来るタイプ。ゲイであり、ヘテロであり。バイセクシャルと言えばそうかもしれないけど、根底はゲイかな。
写真や動画の表情を見てると、心の性別は、たぶん女。
自分大好きで高慢だけど、さびしがり屋。
私を見て観て見て観て!この素晴らしい私を!
かまってほしいときには、かまいなさいよ!もー!みたいな。

あと、フレディの理想の男性像は案外父親だったのかも。だから、マチズモに強い憧れを持ってて、髭を蓄え、ことさら肉体を誇張したり、さらしたりして、「俺は男の肉体をもつ自分が好きだ」アピールをしていたのかもしれない。
そうだとしたら、中身半分女子だよな。マザコンでなくて、ファザコンの女の子を隠し持つ息子。
ゾロアスター教は、勧善懲悪な部分が大きいから、自分の女々しい部分もコンプレックスだったのではないかな。彼がもし、自分の内なる女性性を受け入れられていたら、フレディ・マーキュリーという20世紀最高のパフォーマーは存在していなかっただろうから、コンプレックスは、スターとして存在するには必要不可欠な個性なのかもしれない。
もちろん、それは往々にして、本人にも周囲にも迷惑な猛毒な劇薬だけれども。

タイトルと曲に込められた意味

何故、この映画のタイトルが、
「Killer Queen」でも「We are the champion」でもなく、「Bohemian Rhpesody」だったのか?
スクリーンで乙女オーラ全開なフレディが豪邸に住み、乱痴気騒ぎをする寂しがりのクィーンへと変化していく中で、深夜、たった一人グランドピアノに座り歌うシーンがある。
歌うのは、このくだり。


Mama ooo
I don’t want to die
I sometimes wish I’d never been born at all

ママ、どうしよう

死にたくなんかない

こんな俺なんか生まれてこなければ良かったんだ

「ボヘミアンラプソディ」歌詞


自分なんて生まれてこなければ良かったなんて、なかなか出てくるフレーズでは無い。
そこまで、自分を追い込む理由はなんだったのか。


映画の最初、厳格なフレディの父がゾロアスター教の教義である善思、善語、善行の3つの徳について、事あるごとに口を酸っぱくして言っているのであろうシーンがある。もう、うんざりだと言い放って、夜の街にライブへと出かける若きフレディの様子が描かれる

親の期待にそぐえない自分。

ゲイなのにバイであろうともがく自分。

居場所が見つからない孤独な自分。

虚勢を張る、プライドの高いクィーンなフレディ。

映画でのフレディは、歳を重ね、音楽的に成功していくほど行き場のない迷い猫のように見えた。
フレディが、酒と男で紛らわそうとしても、あれほどの音楽的成功を得ても逃れきれなかった「現実」というのは、結局、自分のセクシャリティに対するコンプレックスだったのではないのかな。

苗字を変え、家族から半ば出ていくようにしていても、メアリー、バンドメンーを都度都度、実家へ連れ帰るフレディ。

家族という集合体に固執したフレディがこの映画では事あるごとに伏線として出している。

ゲイだって家族を作ることは出来る。

ただ、ヘテロやバイに比べると、たくさんの壁や面倒事は多い。

でも、本当はそれだけだ。

それだけだと言える時代を生きている私には、あの時代に生きたフレディにとって地雷であり、憧れであった「家族」という言葉や存在に対して、思い入れが少ないのかもしれない。

映画のクライマックスで、現実でも生涯最後となる恋人であったジムを連れて実家へと向かい、これから世界最大のアフリカチャリティライブに出演することを報告し、善思、善語、善行の3つの徳を果たしたと父に向って、誇らしげに伝えるフレディ。

本当は、ただ父親に認められたかっただけだったのかよ。

そう思わせるような構成にしたのは、この映画が興行的に大成功を収めていることに答えがあると思う。

すべての客層へ配慮されている点

フレディ・マーキュリーという天才を語るうえで、ゲイカルチャーやセクシャリティについて避けて通ることは出来ない。
この映画の本当に評価されるべきところは、想定されるすべての客層へ絶妙なバランスで配慮された演出をしていることである。
そして、監督が「家族」という伏線とともに、強くメッセージとして打ち出したのは、「セクシャリティ」でもある。

映画の中盤に、アルバム発表の記者会見で執拗にフレディへのセクシャリティについて問いただす女性記者が出てくる。
「音楽への質問をしてくれ!」そう言うブライアン・メイを無視して、再三繰り返されるゴシップな質問の応酬。

かっこいいロックミュージックを生み出すミュージシャンがどんなセクシャリティだとしても、音楽のクオリティに何が関係あるのだろうか?
大事なのは、作品が素晴らしいことであって、それ以外の部分はどーだっていい。

私には、そういうメッセージに思えた。

ちなみに、メアリーもヘテロに見えるだろうけれども、ジェンダー的には女性性が強い男性にひかれてしまうセクシャリティな扱いになってる。女同士の延長線にある友愛関係。私も同じセクシャリティだが自覚してるので、彼女のように失望を繰り返すことは無い。

フレディが憧れた母性

映画を観終わってから観た、LIVE AIDのアンコール。
フレディとブライアンだけのアコースティックな演奏。

「Is This the World We Created?」
こんな世界を僕らはつくってしまったのか?

チャリティライブに相応しいバラード、「Is This the World We Created」の出だしは、飢餓に苦しむ子たちを憂う表現で始まる。歌詞中で取り上げる、家庭を知らず愛情に飢えた子たち、それは過去の自分の姿でもあったのかもしれない。

歌詞の中で玉座に座るキングを引き合いに出すも、フレディは、キングではなく、クィーンにしかなれなかった。

でも、母性はきっと強かったのだと思う。
だから、彼は Father! ではなく、Mama!と歌ったのだ。
寄る辺ない子猫が恋い焦がれる居場所は、母親のぬくもりだと、本能的に知っていたから。
そして、彼の実母がそうであったように、母親はいつも子の味方だから。

フレディに誓ったこと

私にとって、「ボヘミアンラプソディ」という映画は、自分のミッションを天国のフレディに約束する、決意を再確認させられた映画になった。

誰もがお互いのセクシャリティを理解し、敬える世界。

I really want to creat the world all sexualty is free and equal.

政治や宗教、文化、さまざまな価値観があるけれども、私たちのセクシャリティは、生物学上の肉体的な特徴による2種類の区別だけには収まらない。もっともっと、複雑で多様性に富んでいる。
顔立ちがそれぞれに違うように、私たちの脳内に存在する、男性性と女性性のバランスも違う。生まれ育つ環境も、時代背景も、文化もすべて違う。
だから、私たちは自分と違う相手に恋という感情を持ち、何かを美しいと心惹かれるのだ。

いい音楽を生み出すのに、作り手のセクシャリティなど関係ない。

特別な誰かを愛しく感じることに、セクシャリティは重要だけれども、絶対的な基準ではない。
男が男を愛しても、女が女を慕っても、良いじゃない。
お互い、人間なのだから。

Mama ooo
I don’t want to die
I sometimes wish I’d never been born at all

「ボヘミアンラプソディ」歌詞

人を愛せるという素晴らしいギフトを持ちながら、
たかだかセクシャリティのことだけで、自分なんて生まれてこなければ良かったなんて自己否定をしなくてもいい。

そんな平等な世界を、私は皆さんと一緒に作り上げたい。

LGBTの皆さんのおかげで少なくとも、その土壌は出来つつある。そのためのレインボーセクソロジーなのだ。

天国のフレディにしてみれば、そんなの知らんがな!勝手にやんな、
と鼻で笑われそうだが、

過去のあなたみたいな人を一人でも救えるようになりたい。

そう、エンディングでスクリーンに映し出されるフレディに約束したからには、地道にコツコツ、自分なりのセクソロジー考察を発信していくだけである。

素晴らしい映画を製作してくれたブライアン・ジョーンズ監督と製作チーム、20世紀foxに心から感謝を捧げます!

Much LOVE Always

セクソロジスト にじの青

射手座木星からの大転機中

放置してた期間に決まったアレコレ

ログイン用のURL という存在すら忘れ果てて、

先日久しぶりに、やっっっとこさこのblogを更新しようと

四苦八苦して、blogコンサルで初期設定していたたいだ、ぽこみちさん

に泣きついて、たった一言で自分のウッカリ具合に気付いた、にじの青です。

どうも、お久しぶりです。

この10月中旬から、12月上旬で、180°近くいろんなことが変わり始めております。

今回は、自分の忘備録を兼ねて、徒然と時系列にまとめてみます。

 

10月中旬の無茶ブリに応える

もし、3年後、いや来年の年末に、自分のターニングポイントになった出会いは何だったかと振り返ったとしたら、自分カレンダー上おそらく2018年10/13(土)は、かなり重要な日になっていると思う。

この日、私はとある人から、ものすごい無茶ブリを貰った。

翌月の11/15から4日間開催の9stepライブセミナーへ参加しないか?というお誘いである。

9stepライブセミナーというのは、ジェームス・スキナー氏というアメリカ人経営コンサルタントが、自身の著作「成功の9step」に基づいて実施する合宿型のセミナーで、完全に日常から隔離された環境で、人生の成功者になるために重要な9つの項目について体験学習するものなのだけれども、当然、そこそこのお値段がする。しかも、宿泊交通費は別でかかるという始末。

かてて加えて、初日の集合時間は8時に千葉県の勝浦。

東京からJRでも高速バスでも2時間以上かかる場所。

そして、最終日の終了は19時予定。

どー考えても、広島から参加するとなると、前後1泊づつしなくてはならない。つまり6日間完全に予定を開けなくてはならないという状況。

一週間、仕事全て休まないと無理。

その無茶ブリに、散々ネゴしまくって、応えたわけです。

今にして思えば、お誘いを受けたことを無下にせず、無理矢理にでもお応えして本当に良かったと思う次第。心から本気で思う。

11月8日、木星が射手座に入ってからのこと

合宿費用を捻出するために、いろいろアイディアを出しては、消しした後、ついに新しい試みを始めることにしました。

それが、月額制のオンラインサロン。

にじいろセクソロジスト養成所

メルマガをほぼ日刊で発信するというスタイルに、今後、会員限定イベントや動画配信などを付け加えていこうと考えています。

これ本当は、11/8の蠍座新月&木星射手座回帰のタイミングで開始したかったんです。新月スタートって、やっぱりキリがいいし、木星は幸運をつかさどる星。

でも、全然、気分にならなかった。フォーマット作って、友人の意見聞いて、手直ししても、記事が書けそうになくて、半月放置。

結果、それは機が熟すために必要な一旦停止だったのですが。

メルマガ放置のまま、あっという間に、合宿前日。

ちょうどナイスタイミングで、ゲノムスーティカルという最新の解剖学情報を聴く機会に参加して、前日受付ギリギリの23時ごろに勝浦到着。

5人部屋を案内されて、これからの4日間に一抹の不安を抱く出来事の洗礼を受けつつも、就寝。

翌朝の朝風呂後の散歩中、氏神様へお招きを受け、呼んでいただいた事への謝辞と4日間のお導きを祈願。大阪経由で到着した広島の友人と合流し、9stepライブセミナーが幕を開けた。

参加するにあたって、一つ決めたことは「TTP」

T(徹底) T(的に) P(パクる)

これ、ビジネス業界では割と有名な用語らしい。

せっかく高い費用を掛けて学ぶのだから、この際、セミナー企画運営側としてパクれる部分は、全部インプットして帰る気でいた。

実際、始まって3時間くらいで「あ、アカン。これパクるには、相当なエンターテイナー性と相当なチーム力と財力が必要なヤツや。」と気づいてしまったのだけれども、セミナー運営に重要なポイントをしっかりモデリングさせてもらった。

9stepとはどういう物なのかは、ジェームスの本を読むなり、DVDを見るなりされればいいと思うし、来年4月末にライブセミナーも開催されるので、興味がある人は是非参加されると良い。

リピーター参加者率も高く、それだけの価値はあると私も思う。

私は、あの4日間で「人生のミッション」と「子どもの頃描いた夢に挑戦する」チャンスを獲得した。この獲得は、半年後の人生すらも変える大きな転機になるだろう。

12月上旬の動き

このblogを書いている日、私は自分のタブーをまた一つ、打ち破る。

不特定多数の見知らぬ人たちの前で、自分の生業について、BDSMという特殊で底なし沼のような深い世界について話をする機会をいただいた。

私が普段している行為や、これまで出逢ったセクシャルマイノリティの人たちの性的嗜好がどのように受け止められるのかはわからないけれども、誰かにとって「解放」になればよいと思う。

 

 

 

何故、オリンピックは男女平等にならないのか?

毎回、オリンピックの時に思うこと

オリンピックって、男女混合の種目は無い。

男性、女性それぞれの肉体的性別で競技が行われるし、種目も違う。

それが普通だと思う人に、ちょっと考えてもらいたいこと。

毎回本人のあずかり知れない部分で起きる残念なこと

セックスチェックと言う検査。

この検査は、ある意味ドーピング検査以上に残酷で残念な検査だと私は思う。

そして、このセックスチェックによって、

これまで積み上げた努力を「無かったこと」にされてしまうのは、女性がほとんどである。

外見的な性別と染色体の性別

この記事にも書いたのだけど、

http://rainbow-sexology.com/20180802/

いっそのこと、ジェンダーフリーというジャンルを設けてもいい時代なのじゃないかな?とおもうのが

セックスチェックによる、女性選手の参加資格はく奪である。

男性選手では、セックスチェックでの参加資格はく奪は起きない。

なぜか?

それは、染色体異常による半陰陽体質の選手が少なからずいるという現実である。

私たちの肉体は、それぞれに男性的な要素、女性的な要素を

染色体と性ホルモンによって特徴づけられる。

たとえば、

私個人の話で行くと、私は男性ホルモンの分泌がワリと多いほうなので

ヒゲやスネ毛が生まれつき濃い。もちろん、女性としては、であるけれど。

ヒゲについては、まばらにポツンポツンと生えるので

こまめに抜くなり、剃るなりしないと非常に残念な状況になる。

 

体毛って、男性ホルモンの領域で、

毛髪は、女性ホルモンの領域。

 

人間って、8割を視覚からの情報で判断するから

外見で性別を区別しやすいように、

服装の形や髪形、肉体そのものの形状など

人類の歴史は文化の発展と主に、様々な工夫がされている。

 

本人も知らない染色体異常という罠

で、話をもどすけど

 

オリンピック選手になる女性のうち、

陸上競技などの筋肉量や筋肉のバネが重要な種目では

華奢な男性よりも、たくましい筋肉を身に着ける女性選手がいたりする。

もちろん、日々トレーニングをしていると当たり前なのだけれども、

そういう女性選手のうち、染色体がXY、

つまり遺伝子的に男性なのに外見上は女性というケースが起きる。

それも、オリンピック直前になって、

「お前は実は男だから、女性としてオリンピックには参加出来ない」

ってセックスチェックの結果をもとに、バッサリ切り捨てられるのである。

 

それ、いくら何でも酷すぎませんかね?

 

染色体の存在を知るまでは、肉体の性別は外見的特徴でしか判断出来なかったけれど、

医療科学の進化で、長年の努力が本人の意図とはまったくかけ離れた部分で一瞬にしてなかったことにされてしまうのは、

「参加することに意義がある」にちょっと準じていないように思う。

 

ジェンダーフリーな種目

かと言って、じゃあどの種目を男女混合にできるのかというと

格闘技などの肉体接触が多い種目以外は、

わりと全部可能なんじゃないかと思う。

 

そもそも、男女別にするメリットはあるのか?

もし、男女の性別差による運動能力という部分を加味しているのなら

パラリンピックとオリンピックを分ける意味合いも、本来無くなるかもしれない。

 

私は、趣味でロードバイクに乗るのだけど、

初めて参加した出雲路センチュリーライドで

片足一本でスイスイとバイクを乗りこなすベテラン参加者さんを見て、

ただただ尊敬しかできなかった体験がある。

 

女性に負けるのは、恥なのか?

ちょっと語弊があるかもしれないけど、

敢えて書いてみる。

女性のほうがか弱く、男性と同等に扱うなんて雅じゃない。

という部分は、ある意味幻想だと思う。

 

もちろん、筋肉の付き方や体格などの個人差はあるけれど

男性のほうが、痛みに弱かったりするように

女性の強さという部分をずっと見ないように美化してきた背景は少しあるのではないかと思う。

男性のほうが、身体能力が優れていると言う自負。

プライドの部分。

 

それは、確かに男性としての重要なアイデンティティかもしれないけれども、

本当に、相手の能力を尊重しあうスポーツの祭典なのであれば、

男女混合で行う競技があってもよいと思う。

 

少なくとも、TEという、第三の性を表す一人称が英語で発生しているように、

トランスジェンダーのスポーツ競技者もこれから増えていくはず。

 

オリンピックは、戦争の代わりに始まった

ギリシャのポリスと呼ばれる都市国家同士の代理戦争だから、

私がここで書いているような、

スポーツを愛し、スポーツに愛されている人たちだけの祭典ではないのかもしれないけれど、

 

ドーピングや人為的な不正ではなくて、

遺伝子上の理由という、本人には何の責任もない事実ひとつで

ずっとずっとずっとずっとずっと頑張ってきたことを否定されるような現実は

規格外であることを暗に認めないというメッセージみたいで

 

早く、そういうやり場のない挫折を一部の選手に感じさせられるような行為がなくなり、

多くの選手がより平等な状態で、オリンピックへ参加できるシステムに移行していけばよいと思っている。

 

Much Love Always with YOU

にじの青