それ、本当に今、必要なの?

2020年から始まった、世界的なパンデミック騒動。
その中で、ずっとずっとずっとずぅぅぅぅぅぅっと言いたくてたまらなかったことがあります。

それは、「マスク」という存在についてです。

どうしてみんな、苦しくないの?

2020年から、いきなり日常アイテムに躍り出たマスク。
マスク難民という言葉が出来るくらい、2年前のこの時期はマスクが希少価値であったこと記憶に残ってらっしゃるでしょう。
当時、職業柄「マスクを身に付けないと、職場に行くことが出来ない」という友人に、我が家に余っていた不織布マスクをほんの10個ほどですが、届けに行ったことを思い出します。

「ありがとう!ホント助かる!これがないと職場へ出勤出来ないんだよね」

我が家の片隅で埃をかぶっていたマスクが、友人の出勤に左右するなんて。
そんなこと、本当に想定外でした。

そして、2020年4月。

当時の内閣総理大臣から、こんな政策が発表されました。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200401/k10012362911000.html

「それ、何のためにするの?」

当時、本気でツッコミ入れました。でも、世間一般では、マスク景気というかマスクバブルが起きましたよね。手作りマスクを内職して販売した雑貨屋さんや小物作家さんも多いでしょうし、衣料品関係の世界的大企業も新商品開発で躍起になっていましたね。

https://www.uniqlo.com/jp/ja/contents/corp/press-release/2020/06/20061511_20ssmask.html

一時期、超貴重品として品薄だったマスク。
その後、マスクの値段はどんどんと下降して、今や素材もデザインも選び放題となっています。

そして、2年たった現在、こんな特集でも取り上げられています。

https://www3.nhk.or.jp/news/special/covid19-money/post/index01.html

街中でも、至る所で誰かが落としたマスクが見かけられるようになりました。
朝の通勤時には、皆が同じ方向を向いて、マスクをして足早に歩いている。
SNSに上がる集合写真も、マスク着用がほとんど。

そんな光景も、おそらく見慣れたものになっているのでしょう。

でもね。

それに、どうしてもどうしても、私は見慣れられないのです。

「わー、異様な光景」

いつも信号待ちで、向かい側に待つ人たちの姿を見て、つい感じてしまうのです。

自家用車の運転席に一人で座っているのに、マスクしている人に至っては
余計なお世話ですが、よく運転に集中できるなと感心してしまいます。

マスクの役割について考える

私がこの2年ずっと、街中でマスクをしている人たちに違和感を感じる理由。
それは、大きく2つあります。

一つは、「呼吸が苦しくないか」

もう一つは「マスクが持つ精神的な影響を知っているのか」

呼吸については、既にこの2年の間にたくさんの警鐘記事が書かれていますので、医療関係者の書いた記事を読まれたらいいと思います。

特に、これから気温が上がり、湿度も高くなるうえで厚生労働省のマスク着用に関する考え方ももう一度、おさらいしておくとよいかと思います。

https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000121431_coronanettyuu.html

個人的な感覚としてですが、私はマスクを長時間着用することが苦手です。ですから、どうしてもエチケットとして必要に差し迫られる状況以外は、出来るだけ着けずに生活しています。

マスクの何が心地良くないか。

そもそも、個人的な身体の感覚として、鼻と口を同時に覆われるという状況が不愉快です。
数分でも、息苦しさを感じます。
顔の皮膚の上に布などが付着するのも、素材によってはとても違和感があります。

私の価値基準として、

「自分の細胞が心地良い清潔な状態で常に過ごす」

という優先事項があります。
これは、マズローの5段階欲求説でいうところの、
「生理的欲求を満たす」ことがとても重要だと考えているからです。

なので、ここ2年選んでいるのは、竹布と久留米絣の天然繊維製のものです。
勿論、毎日手洗いして、清潔な状態のものをローテーションしています。

こういう情報もありますから、知られておくとよいかと思います。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/96073

マスクの持つ精神的な意味合いについて

2つ目の理由として、声を大にして言いたいのは

顔面の自由を奪われる=深層心理への影響がめちゃくちゃ大きい

という事実です。

たとえば、刑事ものなどのサスペンスドラマや映画などで、犯人役の人が人質を取るときにしている行動を思い出してください。

  • 後ろからそっと近づいて羽交い絞めして、捕まえる
  • 片手で人質の口をふさいで、警察と交渉しようとする

人体の構造上、肩から二の腕にかけての部分を鎖骨を覆うようにして固定すると、腕の上げ下げがとても難しくなります。足だけ自由でも、上半身が固定されてしまえば、その場から動けません。
そして、背後から顔の半分を固定されると、後ろにいる相手がどんな行動をしようとしているかも見て確認することが出来ませんし、大声を上げて助けを求めることも難しくなります。

他人の手であろうが、布だろうが、なんであれ
生き物は基本、口をふさがれることを嫌がる性質を持っています。

だからこそ、それを利用するのが、調教という行為です。

2020年にマスクがすんなりと受け入れられた背景に、あるキャラクターが少なからず影響しているのではないかと、私は考えています。

それは、アニメ化された漫画「鬼滅の刃」に登場する、主人公の妹です。

鬼になってしまった妹を人間に戻すために、鬼を狩るというヒーローズジャーニーですが、妹は鬼であることを隠し、力を封じるために、竹の口枷をはめています。

あれ?

ということは、鬼をわざわざ切り殺さなくても、竹の口枷をはめさせたらおとなしくできるんじゃね?

第一話を読み終えたときに、薄っすらとよぎった素朴な疑問でした。
狂犬病の犬とか、空腹の肉食獣って、口を縛ったぐらいじゃおとなしくはならないけど、これはストーリー上のご都合主義なんだろうか?

しかし、客観的に見れば「10代の女の子に口枷」って、倫理的にかなり微妙ですよね。
少年ジャンプって、一応小学校~高校生がターゲットのはず。

しかも、口を封じられたキャラクターが大手コンビニやスーパーなどの店頭で商品のパッケージに使われている。

まさか、いませんよね?

ジブリの監督に対して、作品に幼児性愛の要素があるとご意見される人たちの中に、「鬼滅の刃」が好きな人。映画を何度も見に行ったりされてませんよね?
女性の権利を、SDGsを、と活動されている会社や活動家さんたちのなかに、ご自分の子どもさんへ「鬼滅の刃」を見せたり、キャラクターグッズを買い与えている人。何なら自分が率先してキャンペーンに乗っかっている人。

ずいぶん前に、ある弁護士さんが少年ジャンプの連作作品に対して、

「女性キャラクターの服装が露出多すぎて、教育上問題がある」

とおっしゃっていましたが、同じ視点で行くと

「胸や腰を誇張した肌も露わな服装の女性キャラクター」
「あきらかに肉体的な拘束状態の女性キャラクター」

どちらも女性の尊厳に関わる案件なようにも見えますけれど、どうなのでしょうね。

社会を良くしたいと考える人は、たぶん、どんな時にもあらゆる角度から
「これは間違っている」
「だから世の中が悪くなる」
そう考えていらっしゃると思うので、いらぬ世話だと思いますけれども。

「鬼滅の刃」という作品は素晴らしいと思っています。ストーリー構成や登場人物の作りこみ、作画、いろんな意味で。作品としては、私も好きです。


ですが、作品の良さとキャラクターが世間に与える影響というものは別物です。

少なくとも、口を塞ぐ=相手の言動を封じる行為として、理解している私からすると、違和感しかない部分なのです。

そして、この作品の大ヒットとマスクが日常生活の一部になってしまったタイミングがあまりにも重なりすぎていて、偶然にしては出来すぎているなとも思えるのです。

マスクの歴史を紐解いてみる

人類の生活の中に、マスクが登場したのはいつでしょうか?

こちらでも詳しく紹介されていますね。

https://globe.asahi.com/article/14184149

マスクとは、英語で「仮面」という意味があります。
仮面というと、仮面舞踏会などのイメージからすれば、目元から鼻先を覆う感じですよね。

時代劇では、忍者のように、頭巾と覆面で目だけを出すのが一般的なイメージでしょうか。
イスラム教徒の女性も、チャドルという覆面をする文化があります。


そもそも、顔を覆う必要があるというのは、どういう時でしょうか?

  • 目や鼻に異物が入らないようにするため
  • 強い刺激臭を吸い込まないため
  • 顔を隠して身元を明かさないため
  • 宗教上の儀式で、神や人ではない存在を演じるため

病気に対して、感染を予防する目的で仮面を使用するきっかけは、ヨーロッパの歴史を見ればわかります。

17世紀に起きた黒死病と呼ばれた、ペストの大流行です。

スチームパンクと呼ばれる飛行船などの部品などをファッションに反映したスタイルがあります。そのスチームパンク愛好家が好むアイテムの一つに、ペスチザンマスクと呼ばれるマスクがあります。
ペスト医師用マスクという名の通り、17世紀のペスト大流行時に医師が感染予防のためにしていた、サングラス付きの嘴型をしたマスクです。嘴型をしているのは、中に消毒効果のある薬草を詰め込んでいたためと言われています。

顔を隠すという文化

人類の歴史を振り返るに、病気予防という衛生上の理由よりも、別の理由から仮面やマスクは使用されてきているように見えます。

日本でも、能や神楽などでは、面を使い分けることで登場人物の喜怒哀楽を演じわけたり、身分の高い人ほど、人前では顔を隠す文化があります。

何故、身分の高い人は顔を隠す文化があったのか。

一つは、その方がより付加価値が演出できるからです。
人間の心理として、「隠されているものを確かめたい」という好奇心もありますし、
そう簡単に素顔を見せない存在、というだけで、そう簡単にお目にかかれるほど身近な存在ではないという無言の圧が出せるからです。

しかし、その文化も徐々に変わっていきます。

五感で最も情報をたくさん受け取れるもの

NLPという神経言語プログラムを知っている人にはおなじみですが、
人間には、大きく3タイプの情報収集癖があります。

  1. 目から入ってくる情報が最優先な人
  2. 耳から入ってくる情報が最優先な人
  3. 身体に直接触れることで入ってくる情報が最優先な人

SNSという文化を見ればよくわかりますが、結局、動画や画像を使うSNSを多くの人が利用しているという事実から、「目から入ってくる情報」に価値を大きく感じる人の割合が人類のほとんどだと推定できるということです。

写真を撮るという、今の世の中でとても当たり前で、誰でも出来てしまうこと。
これは、いったいいつから始まったのでしょう?

なんとたった150年ほどの歴史しかないのです。携帯電話で写真を撮って送る、今となっては当たり前のことだって、20年前には当たり前ではありませんでした。

写真の前、何を使って人類は情報を記録して発信していたか?
それは、絵や図形でした。それらは、簡素化されて文字となり、より詳しく一目でわかるように、細かく書き写された絵というものが人気でした。

ですから、歴史の教科書に載っている、戦国武将も天皇も、1800年代から昔の人たちは似顔絵でしか残っていません。

何故、人間は「目から入ってくる情報」を大事にするのか?

それはもちろん、「生き残るため」です。
生き残るために、生まれて数か月した多くの赤ちゃんは、耳から聞こえてくる音や肌で感じる外の世界の様子よりも、目で見ているものから世界を知ろうとし始めます。

だから、「言葉を話す」ことを始めるのがだいたい1歳過ぎてからなのです。あー、うーという発声練習で、声帯の使い方を練習し、腹筋や横隔膜の動かし方を知り、自分の世話をしてくれている親や周りにいる「自分に興味関心を持っている存在」の顔をみて、表情筋の動かし方を真似て、耳から聞こえてくる音を繰り返してみようと練習して、やっと言葉を話せるようになるのです。

マスクしたオトナから何を子どもたちは真似るのか?

街中にマスクした人があふれている今。
こういうことがこれから起こるだろうなと思うことが2つあります。

一つは、「言葉の発達が進まない乳児、しゃべることが得意ではない幼児が増える」だろうなということ。

もう一つは「他人軸でしか判断が出来ない、思考停止した人が大半になる」だろうということ。

これが、冒頭にも書いた「マスクの与える無意識への影響」です。

1~3歳児の言葉の発達が進まないのは、ともかく。
「思考停止した人が増える可能性が高い」というのは、いろんな事実から簡単に推測できるのです。

見ざる言わざる聞かざる

これは、一言で言うと「無関心なふりをして、なかったことにしてしまおう」という状態です。

2年前は、コンビニエンスストアなどでフルフェイスのヘルメットや、マスク、サングラスをしたままで入店されると、店員さんは少し身構えていたはずです。
何故なら、そういう「顔を隠した人」は、強盗をする可能性が高いとされていたからです。
その前に、人間の持つ深層心理の中に「知らないものを怖がる」という防衛本能があります。その方が、より生き残る可能性が高いからです。

でも、今はどうでしょう?

見知らぬ人がマスクをしていないことを不安に思う人のほうが多いのではありませんか?

それは「病気に感染するかもしれない」という生存本能の反応です。
しかし、実際の感染死亡者数はこの2年で何人だったでしょうか?


厚生労働省の記録によると、この2年間の累計での死者数は約2万7千人。
東京ドームで超満員のコンサートをしたとして、約5万5千人が収容できるそうです。
日本武道館だと、約1万5千人。


あなたの周りで、何人の人が「感染が主原因で死亡」していますか?

むしろ「陽性」とされたけれど、「完治した」人のほうが死者数より多くないでしょうか?

これは全部、調べてみれば出てくる情報です。

では、どうして多くの人はマスクをするのか?

一つ、「マスクをしないと、利用できない場所がある」

もう一つ、「マスクをしないと、他人に迷惑をかける」

何かを身に付けていない=仲間外れだから、皆と同じことはさせない

これって、小さなイジメですよね。

何かを見につけていない=行動する権利がない

基本的人権の尊重という、日本で一番重視される憲法に反する制限とも取れます。

何かを身に付けていない=誰かを病気にさせてしまう

病気とは、健康ではないから起きる状態ですよね。
その人の健康についての責任は、周りにも多少あるでしょうが、結局「持ち主が身体の状態について、理解したうえで、日々どういう生活をしているか」という部分です。


ということは、

わざと「世の中全員、苦しんで死ねばいい!」と何かしらの毒性の強い病原菌をばらまいたとて、生き残れるひともいるわけですよね。

人間の身体には、36兆以上の細胞があります。しかしその10倍近い微生物が皮膚にも、内臓にもいます。そのおかげで、食べ物を消化して、栄養として吸収出来たり、肌表面の状態をいい状態にしているって知ってますか?

微生物って、善?悪?

それすらも、肉体と理性では真逆だったりするわけです。

だから、他人に病気を移すという現実が起きるのは、相手が不健康な状態であるときに限ると考えられるのです。

育児放棄やネグレクト、家庭内暴力などで良く起きているのは、
その当事者だった人が自分の子どもに同じことをしてしまうという事実です。
嫌だったのに、同じことをする自分に絶望するという話はよくあります。

人間は、自分が経験したことから学びます。それを繰り返すことで、生き延びてこれたからです。


ということは、周りの大人がしてきたことを真似しているわけです。

食べるもの、会話。
そして、家族という人間関係の在り方。
お金に対する考え方。

全て、とは言いませんが、周りの大人の背中から知らず知らず学んだ「価値観」に影響されているのです。

今の大人から、20年後の大人になるこどもたちは、いったい何を無意識のうちに真似しようとするのでしょうか?

一方聴いて沙汰するな

この2年でいろんなことが起きました。

「見ざる聞かざる言わざる」に慣れっこになる自分にも、ちょっと飽きてきました。

恐怖や不安をあおるというのは、悪徳商法でよく使われる手段です。

「これを買えばモテる」

「これだけのお布施をすれば病気が治る」

でも信じる人もいますし、実際に望む結果を出す人もいる。それが人間の面白いところです。

本当に賢い人は、自分が何をしているか、得意げには言いません。
周りが勝手に「あの人はすごい」「君は天才だ!」と持ち上げて、才能を認められるだけです。

争いごとというのは、お互いの「言い分」が違う時に起きます。

「俺が先」

「いいや俺が先」

「これは私のもの」

「何言ってんの、私の」

家族や兄弟で言い争うことと同じように、地球上ではいろんなグループや会社、組織、そして国が言い争ってきました。

でも、それって今、必要なこと?
本当に死ぬかもしれないときに、隣の人と言い争うことできる?

猛毒な空気があふれて、マスクなしで暮らしていけないほど、私たちの世界は危険なのでしょうか?

2022年から、世界中で「マスクを外した生活」が再開されています。
その差はどこにあるのでしょうか?

微生物というものは、常に進化します。進化すればするほど、強くなるかというと、そんなことはありません。

この2年で強く思うことは、「一方聴いて沙汰するな」です。

日本人は、ディベートが得意ではありませんが、誰かにとってのYesしか考えられない「思考の偏り教育」のおかげかもしれません。
誰かの正解だけではなく、自分にとっての正解を自力で導き出せる。

それこそが、「自分の人生を自分の責任で生きる」ということだと、私はこの2年で実感し、確信しました。

さて、頭の体操です。

マスクは、いったい、誰にとって必要なものですか?
今のあなたにとって、マスクをし続けることはYesですか、Noでしょうか?

Yes,Noの両方をぜひ、紙に書き出してみてください。

たとえ、どちらか一択しかないとしても、反対側の意見も考えて1つは書いてほしいのです。

そうすれば、あなたが何を「重要」だとしているのかが、見えてくるでしょう。

私は、他人を言葉や物理的な状況で支配するという行為をこれまで、得意にしてきました。
より効果的に、より効率よく、相手を従わさせるという部分に注目し、観察をしてきました。

だから、マスクというアイテムをどう使うことで、精神的に相手を支配し、従わせられるかも、理解しています。

これからも、必要最低限でしか、私はマスクを使いません。

何故なら、「自分の細胞が心地良い」状態で、呼吸する自由、自分軸で行動する権利を最優先にしたいからです。
そのためにも、「自分にとってのYes」とその「逆は何か?」ということの両方から、世の中を見つめていきたいと考えています。

長文を最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

解放することを伝え続けていくために

「宇宙の理をもって、心と身体を解放し続けること」

2020年からの2年間は、世界中の人たちにとって、これまでの「当たり前」について根底からひっくり返されるという裏切りを痛切に感じさせられる時間軸だったのではないでしょうか。

「当たり前の日常などあっという間に変わってしまう」

そんな中で、この2年間、何のために自分はこの先生きていくのだろうと考え続けてきました。

2021年の春から、いくつかの学びの場へ参加してきました。
そこで改めて、思いを強くしたことは、2018年に思い出した自分のミッションステートメントです。

「私の人生の使命は、宇宙の理をもって、人を解放するお手伝いをすること」

このミッションステートメント、つまり私の使命を思い出したのは、ある合宿セミナーでのことでした。

そして、その後決めた自分の肩書は「解放セクソロジスト」

セクソロジー、つまり性愛に関するありとあらゆることを科学的な視点で解き明かして、検証し続けていくことで、自分も含めた人間の心や体の凝りを解き放って、本当の意味で自由に生きるようになるお手伝いをしたい。

それが、このブログを開設した一つの目的でした。

「もっと伝えたいのに、どうすればいいんだろう」

メルマガを始めても、おはなし会をしてみても、イマイチしっくりきませんでした。

15年以上慣れ親しんだ、SMという非日常の性的な行為。

堅気の世界と性風俗というアンダーグラウンドな世界の両側にそれぞれ片足を置き続けても、どっちつかずな自分がいるなという実感も年々、増していきました。

SMという行為は、不自由な現実から束の間の解放を感じさせてあげられるもの。

クライアントとして利用してくれる様々な性的な好みを持つ人たちが、ほんの一瞬、世間体を忘れて、自分の生理的な欲求や感情的な願望を解放して、仮初めの自由を味わっていくれていたように。

私も、彼ら彼女らによって、束の間、私の中に潜む欲を満たし、在りのままの自分を取り戻していたことも事実です。
今、SMという舞台を退いて、傍観者となったからこそ、共依存であったのだなとも思います。

2021年というターニングポイント

冒頭で書いたように、2020年と2021年という2年間は、地球という大きな社会においても、日本という社会においても、全てにおいて激動のまま、過ぎ去っていった730日間でした。

私に関して言うならば、2021年こそ、人生のターニングポイントと呼ぶにふさわしい一年でした。

毎月のように、いろんな出来事が起き、時に振り回されそうになりました。
あまりにも、多くの、そして濃密な経験があり、貴重な学びの瞬間がサプライズギフトの様に届きました。

その中で、5つ。
2021年を特別なものに仕立ててくれた経験があります。

  1. バーレスクダンサーとして人前でショーをしたこと
  2. 小冊子を自費出版したこと
  3. セミナー講師として、本格的に活動を始めたこと
  4. 神の手技と体感覚をもつ武術整体の師匠に弟子入りしたこと
  5. 情報発信をする側としての在り方と視点の持ち方を学んだこと

それ以外にも、特別な時間を多く味わうことがありました。

プロのカメラマンに依頼をし、自分がイメージした空間と状況での撮影もしてもらいました。

これも、その時の一部です。

格好いい自分を画像として残すこと。

仕事としては何度も行ってきました。
そしてそれに付加価値が付くということも実感はしてきました。

それらが窮屈に感じられるようになり、もっと解放された状態で未来へと向かいたい。
どっちつかずの状態から、一歩、先へと踏み出すには。
どうすればいいのだろう。

目先の一人が持つ願望を解放すること。


それもとても大切なことでした。

ですが、その先にもっと、解放される可能性がある人がいる人たちと関わりたい。
例えば、子育て中のお母さんたち。子どもたちと接する教育現場の人たち。

その人たちに向けて、情報を届けるには、性風俗にかかわる当事者であることよりも、身体と心の専門家であることをより確実な状態にする方が大事なのではないか。

そう思い至ったから、2020年の年末に、SMという舞台から降りるということを決めました。その決断は、情報発信について学びを深めていくうえで、それは一つ必要なタイミングだったと思います。

バーレスクという非言語の情報発信

バーレスクダンサーとしてデビューする。

そんな予定は、私の人生にはありませんでした。少なくとも、2020年までは。

しかし、現実はドラマよりもドラマティックな想定外のことが起きるもの。
SMという世界にかかわっていたご縁と、そこで培った美意識や感性が、私をバーレスクという表現の世界へと導いてくれました。

詳しい顛末は、以下に書きましたのでそちらを読んでください。

https://rainbow-sexology.com/%e4%b8%8d%e6%84%8f%e6%89%93%e3%81%a1%e3%82%92%e9%a3%9f%e3%82%89%e3%81%a3%e3%81%9f42%e6%ad%b3%e3%81%8b%e3%82%89%e3%81%ae%e6%8c%91%e6%88%a6/

バーレスクという、未知の世界で自分の作品を一から作る経験は、私という人間の棚卸しにもなりました。
SMの表舞台を去ったとて、緊縛や拘束、異性装などの非日常な行為や猟奇的ともとられる美的感覚がなくなるわけではありません。
それらを元にして、小道具や演出を考えていくうちに、バーレスクも言葉を使わない非言語コミュニケーションの手段なのだと思い至りました。

そして、東洋思想の十干十二支から導き出される東洋占星術的な自分の本質を学んだ結果。

何をしていても、結局、人の目を引き付けてしまう。
むしろ、こそこそしても悪目立ちする。

そういう星の下を選んで生まれてきているということを再確認させられて、表現者として生きることも、自分を解放するには必要な行為なのだと自覚しました。

物書きとしての自分になる

2018年の自己啓発合宿セミナーで思い出したのは、自分のミッションステートメントだけではありませんでした。

「自分で本を書きたい」

小学校から20代くらいまで、ずっと願い続けていた夢。

それをただの夢ではなく、自分の人生の中で必要な目標へと意味づけてもらったのも、その合宿で得た貴重なアドバイスでした。

ですが、結局、一番ネックになったのは「売れるかそうじゃないか」という経済的な部分でした。

たくさんの人に届けるには、買ってもらわなければならない。
では、どうすれば「買いたい」「読みたい」と思ってもらえるだろう。
自分の書いた文章に、お金を払う価値なんてあるのだろうか?

そんなことをグルグルと考え続けていた時、SMで書いていたブログでプレイ内容とは関係のない、用語シリーズ的なものを書いてみたところ、思いの外、好評だったのです。

それから、本格的に文章力を鍛えなおして、2021年9月。

ある種の疾走感を感じながら書き上げたのが、2冊の小冊子でした。

この小冊子についても、こちらでその時の気持ちを書き出しています。

https://note.com/blueinrainbow/n/nba621b03a595

入稿データを作るにも、いろんな専用ソフトが必要だったり、思い通りの完成形にならなかったり、仕上がった現物を見て、1分後に誤字を見つけて、愕然としたりと散々ではありました。

けれども、最後まで締め切りに向けて諦めずに書き上げる。
しかも、勢い余って、

「やっぱりこれも言語化しておきたい!」

というある種のマスターベーション的な部分も無きにしも非ずな2冊目も作るという始末。

でも、「違いは個性のはじまり」の原案は、
「性別=自分の個性」というタイトルで書きたかった本なのです。

この2冊の小冊子を書き上げたことで、文章修行に時間をかけることが優先順位から外れました。
しかし、書き上げたことで、変な気負いがなくなって、より書きたいことにしっかりと向き合って文章を組み立てるということが出来るようにもなりました。

余談ではありますが、プロとしてライターのお仕事も経験させていただけたのも、2018年から文章力や情報発信について悶々としたおかげだとも思っています。

次の目的は、「違いは個性のはじまり」を加筆修訂して、全国の小学校や中学校の保健室へ寄贈することです。これは、クラウドファンディングが一番良さそうではあるので、2022年のどこかでタイミングがくればいいなと思っています。

アウトプットこそ、最大のインプット

多くの人がいやが応にも、自分の健康状態に意識が向くようになった2020年。
そのおかげで、2021年は「アウトプット元年」ともいえるような時間にもなりました。

一番のインプットになったのは、身体の仕組みをなるべく分かりやすいように伝える講座をしたことでした。

2015年に現役の医学博士から教わった解剖生理学の知識に、それから自分で調べて学んでいったアロマセラピーやハーブ、中医学などの自然療法から、占星医術と呼ばれる古典医学まで、たくさんの本を買い読み漁り、ネットから参考資料をダウンロードや切り抜きして、全13回のテキストを作り、受講される人の興味関心や疑問点に寄り添いながら、なるべくわかりやすい言葉を使って説明をする。

同じ回の資料であっても、伝える相手が変われば、主に伝える情報や伝え方も変わる。そして、伝える側なはずの自分が一番理解を深めて、「人体って本当にすごいな」と改めて納得してます。

これは、2022年月1回のペースで伝えていきたい鉄ミネラル🄬のおはなし会でも同じです。
鉄ミネラルのおなはしというのは、ベースとして宇宙と地球の歴史から、生き物の発生を軸にしてお話をする講座で、私がこれから続けていきたい講座の一つです。

鉄ミネラルとあるように、多くの女性が悩む貧血の改善としての鉄分やほかのミネラルの重要性についてお伝えするのですが、自分で一番楽しんでいる感じはあります。
毎回「宇宙ってすごいな」「地球ってすごいな」「人体ってすごいな」と思いながら、参加者さんから同じご感想が聞けると、本当に嬉しいのです。

2021年は、もう一つ、以前に思い付きで作った女性向けの性教育講座を復活させて、再編集もしました。

ジェンダーフリーなどは、SDGsの中でも取り上げられていますし、2020年東京オリンピックでもいろいろ物議を醸しだしましたが、今の社会ではなかなかに変わりにくい部分です。
その構造自体も、いろんな理由があるのですが、

もし、草の根活動として意識を変えていく切っ掛けづくりができるのであれば、

女性の持つ性的なことに対するネガティブな思い込みや無意識レベルの否定に本人が気づいてもらう機会を増やして、ポジティブな思い込みへと上書き保存していくしかない。

私が、他の人とは違う性的な経験を多くしているからこそお伝えできることがあるし、逆に、いろんな人の盲点を外すことが出来るかもしれない。

それが、「女神の美ほと塾」という講座を作った経緯でした。

2019年に作った講座を2年越しに再編集して、やっぱり性について伝えていくことは続けていきたいなと毎回、ご参加される皆さんの表情や変化を見て、再認識しました。

オンライン講座が簡単にできるご時世ではあるのですが、自分のルールとして、身体に関する講座と性に関する講座は、対面のリアル開催で続けていきたいと考えています。
何故ならば、どちらもアナログの塊である私たち人間の肉体について考え、読み解く講座だからです。

私が話す言葉の振動や身振り手振りの臨場感も含めたすべてが、講座のコンテンツになる。

そう信じているので、2022年はいろんな人に聞いてもらえる工夫として、簡易版の音声コンテンツを作れないだろうかとも考えています。

小冊子の朗読音声が一番、良いかとも思うのですが、クラブハウスのような場も良いかもしれないので、小さく試して最適な組み合わせを発見できたらいいなと考えています。

自分の身体は自分で治せ

身体の講座をアウトプットすればするほどに、一つのフレーズが軸になるようになりました。

「自分の身体は自分で治す」

これは21世紀のリベラルアーツの一つであると実感すると同時に、私が師匠として尊敬する仕術家のオンラインサロン名ともかぶるのです。

師匠の下に通って、1年が経ちます。

何故、人が病気になるのか。

それを裏付けて、答え合わせをしてくれたのも、師匠でした。

病気とは、結局、身体からの危険信号なのです。

「これ以上続けると、死ぬよ」というメッセージでもあり、

「今の生活は、嫌だ!早く止めて!」というSOSでもあります。

だから、薬を使うというその場しのぎでは、解決しないものが多いのです。
クスリとは毒だね、という歌詞の歌もありますが、毒を以て毒を制すことも時にはあります。

だからといって、万能な薬もありません。
風邪薬が発明出来たら、ノーベル賞ものだ。
そう言われるくらい、風邪ほど薬があまり効かない症状はありません。

この2年間で、そう実感した人も多いと思いますが、何かに頼り安心したい人のほうが多いから、薬で治そうと頑張る人が多いのでしょう。

本当に、身体を整えて健康になりたい人。

そんな人のために、知恵も手だてもお伝えできる治療家になる。

これも、性に関することをお伝えして、心と身体を解放するためには欠かせない部分。
神の手をもつとされる治療家の中でも、師匠に学ぶご縁が結べたことも、2021年の大きなギフトでした。

知識と智慧の違いを知る

子供のころから、活字中毒で、勉強ヲタク。

「何でも知ってるんですね」

そう言われたことも数知れずありますが、私にとってみれば、学校の授業で学んだことが大半だったりします。逆に、受験戦争で一生懸命頑張って、大学に通ってる人は、私がこの10年で費やした学費や書籍代の合計よりもきっと多く払っている人もいるでしょう。

ただ、暗記するだけの情報や知識ではなく、自分で経験して身に付ける智慧。

オーラソーマ🄬で色彩学を学んだ時に、知識と智慧の違いを理解してから、智慧を届けられる人でありたいなと意識するようになりました。

ブログというウェブ上の日記を書き始めたのが、2005年ごろ。
Twitterを始めたのが、2010年。
それからの10年で、いろんなSNSを通して、「自分が今、見て、感じたこと」について発信することが日課になってきました。
時には、仕事として。
でもそれ以上に、私の個人的な「これ素敵」という記録にも、SNSを利用してきたように思います。

SNSを介した知人、友人が増えるたびに、いろんな自己表現があるなと感じる機会も増えると同時に、

「こういう投稿は見ても、あまりいい気分にならない」
「この人は、どうしてこういう投稿ばかりするのか」

そんなことに気を取られることも増えました。

情報発信について学ぶ最初に、「情報公害」という単語を知り、まず、自分がその発信源とならないために、SNSへの投稿やメルマガをかくことも、一端、止めてみました。

その分、文書修行の方で書くことと真剣に向き合う時間を作ったり、バーレスクという表現に挑戦したりするうちに、自分の中の承認欲求を客観視する機会が多くありました。

SMのプレイヤーとして表舞台に立ち続けることを辞めようと決めたのも、どんな情報発信をこれから続けていきたいのか。
もっと言うと、「10年後の自分は、どうなっていたいのか」というゴール設定を考えたときに、

「性的な魅力を多売する生き方」よりも
「自分の経験や智慧を多売して人に喜ばれる生き方」をしていたい

そう思い至ったからです。

現在、私の外見は、ハンサムな印象のある年齢不詳、性別不明気味な人。
まさにジェンダーレスな人です。

でも、必要とあれば、これでもかと女性らしく取り繕った外見で、ピンヒールで美しく優雅に歩くこともできますし、異性装者として、宝塚の男役さん見習いぐらいのことも出来ます。

同じ中身であれば、外見は女体のほうが性的な魅力を多く感じますし、男性へのほうが性的な魅力の条件が厳しかったりします。

そういう部分も、普段の言葉や興味関心事、しぐさや服装などからにじみ出ている。

これも情報発信について深く学ぶ中で、無意識に自分が行っている「私はこういう趣味嗜好の人間です」というアピールなのだということを、再認識することが出来ました。

これは、人を観察するというセラピストにおいても、ものすごく重要な項目ですし、講座やセラピー、対面セッションなどの現場で意識的に習慣にした方が良い部分だと感じています。

2021年は、神業整体を始め、学びを深めて、自分の身に付けていく機会を本当に多く経験しましたが、その根底になる考え方や視点の起き方は、情報発信の学びから身に付けたり、確信を深めたことでした。

学ぶことは何よりも精神的な快楽だという、珍しい感覚の持ち主として、2021年ほど精神的に満たされる時間が多く、そして深い悦びを体感できた季節はありません。

これらの機会を得ることにつながった、すべてのご縁に感謝をささげたいと思います。

10年後の私へ伝えたいこと

アラフィフで閉経を迎えた私が、10年後どんな思いをこの記事を読んで感じるのかは、その時にならないとわかりません。

ですが、おそらく。

「2021年があったから、今、こうしてやりたいことをやれている」

そう言うだろうとは、思っています。

思えば、20代の頃から40歳という年齢が恐怖でした。
母が他界したのが42歳。
シュタイナーの人生カレンダーでも、42歳というのは21年続いた太陽期から火星期へと移り変わるターニングポイント。
2021年は、その西洋占星術的なシュタイナー理論でもターニングポイントであり、実質は2020年の木星耕運期からの延長で、たくさんの恵みを学びという形や人のご縁という形で得ることが出来た年でした。

哀しいことも、腹が立ったことも、いくつかあったかもしれません。

けれども過ぎ去って見れば、不思議と、穏やかな状態が多かったように思える一年でした。

2032年の私が、これを読むころには、世界もまた大きく変わっているでしょう。

けれども、「宇宙の理とともに、人を解放するお手伝いをする」ことを続けていられるならば、
きっと「在るがままに自由な人生」を過ごしていることだと思います。

子供のころの夢で、まだかなえていないものがあります。

それは、宇宙へ行くという夢です。

10年後、宇宙空間から、地上を眺めながら誰かに何かを伝えている。

そんな未来を思い描きながら、2022年も自分の心も、考え方も、行動も解放し続け、その余波でご縁ある人の何かも解放するお手伝いが出来たら、素晴らしい一年を過ごせるだろうと予祝しておきます。

最後までお目通しくださり、ありがとうございました。
皆様も、良い2022年をお過ごしください。

にじの 青 拝

不意打ちを食らった42歳からの挑戦

*この記事は、2021年9月に書いたものを加筆修正したものです。

その日、ついに事件は起きた。いや、始まったという方が正しいかもしれない。

「バーレスク、やりましょう!」

それは、本当に本当に寝耳に水な提案だった。

バーレスク。知らない人も多いだろうけれども、ショーパフォーマンスである。

元々は16世紀ごろに始まった大衆娯楽の一つ。多くはシェイクスピアの戯曲をベースに、社会を風刺するパロディを中心とした、ダンスや手品、歌などで構成される、言わばガス抜きの役割を果たす娯楽として、当時大変盛り上がったようだ。テレビもラジオも、ましてやインターネットすらない時代には、演劇や合奏などの生身の人間が目の前で何かをやって見せるというライブ型のエンターテイメントか、絵画や文章、彫刻などのいつでも見ることができる作品という2つのパターンでしか、表現活動というものはなりたたなかったのである。

しかし、時代は変わり、今のバーレスクというのは当時とずいぶん違う。

「グレイティストショーマン」のような映画で見るショービジネスという世界は、華々しくてまぶしいイメージがあると思う。とにかくいかに観客の目をくぎ付けにし、興味関心を引く派手な演出が必要。いかに、非日常を味わうか。これらは1900年代のアメリカで始まった流れだ。

その流れから、現在、ショービジネスでのバーレスクというのは、最大限まで肌を露出し、あたかも欲を挑発するような大胆なパフォーマンスをする、セクシーヌードダンス的なポジションに収まっている。

それを、このお人は、私にやらないか? と無茶ぶりな提案をしてきたのだ。

まさか、自分の誕生日に。そんな無茶ぶりが来るなんて、5分前、いや1分前の私には想像すらつかなかった。

せめて、私に無茶ぶりを吹っかけてきた人が、ただの飲み友達やたまたま居合わせた酔っ払いのおっさんであれば、話はシンプルに終わったし、事件にもならなかった。

音楽喫茶ヲルガン座バーレスク部、部長 ゴトウイズミ。

バーレスクが好きすぎるがあまりに、自らが部長となって、バーレスク部というチームを作り上げている、ミュージシャンであり、劇作家であり、経営者。

そんな筋金入りのショービジネス歴15年以上のプロから、無茶ぶりを賜ったのである。

おそらく確信犯。

その場で思いついた犯行ではなく、ずっと決行するチャンスを狙っていたに違いない。

なんて誕生日だ。

私にしてみれば、不意打ちバーレスク事件としか言いようがなかったこの日から、42歳からの挑戦がいきなり始まったのである。

バーレスクって、なにそれおいしいの?

バーレスクを見せて、お金を稼いでいる人の多くは、だいたい何かしらのダンスをしていた人が多い。

私がバーレスクというスタイルのパフォーマンスを初めてみたのは、音楽喫茶ヲルガン座の周年イベントでのことだった。その前から、バーレスクというものがあることは知っていた。

人前で脱げる上に、踊れるってすごいなぁと完全に、お客目線での感覚である。

実は、当時、ヲルガン座にはさほど通ってはいなかった。私の行動範囲からは、少し外れたところにあったからである。そんな状況で何故、参加したかというと、私がお世話になっているあるパフォーマーさんが、そのイベントのメインゲスト出演者だったからである。当時、私のひそやかで小さな野望のひとつとして、そのパフォーマーさんのショーイベントをヲルガン座に呼びたいというのがあり、偶然、たまたま、私の誕生日にその野望が実現するというラッキーな流れでもあったのだ。

「あ、この子もゲストで出るんだ」

イベントのフライヤーを見て、知り合いのバーレスクダンサーも関西から来るのだと知った。その周年イベントの数か月前、アメリカで開催された世界的なバーレスクコンテストに彼女がコンテスト主催者からの招待枠で参加していたとツイッターで見ていたので、どんなショーを彼女が見せてくれるのかも、楽しみでもあった。

プロの芸はすごいと目の当たりにした上で

照明が暗転し、音楽が流れ始める。

和傘に振袖。
色街の花魁に扮するような出で立ちで舞台に立つ彼女。
しゃなりしゃなりと動くたびに、高島田に結った髪に刺さった簪の飾りが揺れる。

傘を開いて回転させると、花吹雪が舞う。

曲のリズムや旋律に合わせて、堂々と、しかし勿体つけながら、彼女は踊り、肌を露わにしていく。

バーレスクに欠かせない小道具として、ペイスティと呼ばれるアイテムがある。いわゆるニップレス、乳首が見えないように貼り付けて隠すためのもので、そのペイスティの装飾も演目を左右する重要なアクセサリーになる。

シミーという、身体を小刻みに揺らすバーレスクならではの動作があるのだが、このシミーが上手だと、ペイスティの先についたフリンジがグルングルンと回転するのである。胸の先にプロペラが付いて回転しているように見えるので、とても盛り上がる。子供が見たら、間違いなく「あれやりたい!」と叫ぶこと間違いなしの技である。まさに肉体芸。

この日の彼女の見せ場は、まさに、そのプロペラ技だった。

「スゲー。さすがアメリカに呼ばれる人は違うわ~」

ショーを見終わった直後の感想は、そんな感じだった。

彼女が日本舞踊をしていたとか、知り合いだからというのを差し引いても、彼女のバーレスクは凄いなと感じた。しかし同時に、こうも思ったのだ。

「私には、出来ないな」

そう思ったバーレスクを、まさか、それを見た同じ日に、それを見た会場で、そのイベントを企画した張本人から、「やりませんか?」と勧誘されるなどとは、本当に夢にも思わなかった。

2021年8月3日火曜日。

この日が、私のバーレスクデビューの日になった。

Tomorrow Burlesque vol.5 2021年6月公演 テーマ「striptease」

半年に一度のバーレスク部員全員が出演する合同発表会。
Tomorrow Burlesque。

本当は、6月に開催の予定が、緊急事態宣言で8月に延期となり、さらに3日と5日の二日開催する予定だったのが、県からの要請が出され、8月4日からまん延防止集中期間開始のために3日だけ開催となった。

まるで、覚悟が決まりきらない私の内面が反映されたような展開だとも今は思う。

前日の2日に最初で最後の通し稽古をして迎えた8月3日。

昼過ぎから、会場の設営でと簡単な最終確認を行って、メイクに入る。ステージ事の舞台裏は、どんな演目でも同じだ。本番前直前の緊張と、ワクワクとが入り混じった独特の熱気。

中学校の時に出た学生ミュージカル、高校時代の演劇部。10代の頃に経験した時と何ら変わらない、舞台裏という空気をまたこうして体験する羽目になるとは、などと随分のんきなことを考えながら、普段の私ではないステージ用の濃い顔つきへと顔を作っていく。

夜19時。開場と同時に、ご予約のお客様が押し寄せる。過密を避けるために、本来の定員数を割った席数ということもあり常連さんがほとんど。受付や、司会、物販などもバーレスク部員全員で担当して行う。検温と代金の受け取り、ドリンクなどの注文などを皆で行っていくうちに、開園の時刻となった。

19時半。部長の司会から合同発表会が始まった。

4人づつ、3部構成のスケジュールのなか、私は2部の2番手。受付の時に着ていた服から、ショーの衣装に着替えても、私の心は穏やかだった。

承認欲求をどう受け入れ表現するのか

私「わかりました。やります。でも、脱がないバーレスクでもいいですか?」

部長「いいですよー。脱がないバーレスクもありますから。頑張りましょう!」

私「はい、よろしくお願い致します」


そんなやり取りから始まった、不意打ちバーレスク事件。

脱がない、ということが演目を作るのに、かなりハードルを上げたということを思い知るのが、本番1か月前。

たった5分の持ち時間の中で、何を伝えたいのか。
脱がない理由というものを、どう表現するのか。

それを試行錯誤する本番までの2週間。

それでも、「やらない」という選択肢は無かった。

元々「私を見て!」「私に反応しろ!」という承認欲求は、薄いほうだと思う。こうして文章を書いたり、SNSをしたりしている時点で、薄いとは言えないのかもしれないが、必要以上に悪目立ちするということに対して、ものすごく抵抗があった。

だから、最初にバーレスクを見たときに感じた

「私には、出来ない。無理」

というのは当時の素直な気持ちだった。

踊りに自信があるわけでなし、ショーの演者として有名になりたいとも思わない。

ましてや、バーレスクなんてほとんど見たこともない、ど素人。

だから「バーレスクをやる」「バーレスクをやらない」という単純な二択だったら、答えは後者なのだ。本来であれば。

でも、結局、私はバーレスク部の部員として、バーレスクデビューをした。
理由は二つ。

一つは、長年プロとしてショービジネスの世界を生き抜いてきた独自の審美眼を持つ人からの勧誘だったということ。

「you、やっちゃいなよ」という一言が引き起こす勘違いは、きっと、どこのショー現場でも起きていると思う。最初は「えー、私なんか」などと尻込みしていた子が、場数を踏み、チヤホヤされて、他人からの注目を浴びるという快感を覚えることで、花開く場合もあるだろうが、そんなの本当に素質があり、きちんと努力できる場合しか生き残れない。

他人からの注目を浴びるということは、承認欲求を一瞬で満たしてくれる。その数が多ければ多いほど、「私を必要としてくれる人がいる」という喜びを感じられる。

だからこそ「注目を浴びる」というのは、ある種の強烈な麻薬なのである。

その麻薬が欲しくて、いろんなものを引き換えにしていくことで起きているトラブルはたくさんある。SNSでの過激な投稿なども、その一つだろう。

「自分を知ってもらってナンボ」なショービジネスで生き残るということは、歌でも踊りでも、演技でもなんでも、「この人にしか出せない技」「この人しか持っていない何か」という特出した技能と存在感というものを持っている証拠である。それと、自分をどこまでも客観的に見られるバランス感覚。これらを持っているから、一世風靡で終わることなく、長年、ファンとともに自分の表現活動を続けられるのだと知っている。何故ならば、私自身も、業種は違えども人気商売の世界で5年以上もまれ続けてきたからだ。

「やりたいならやればいいじゃん!」

私たちは、つい他人が行動を起こすか、起こさないかで相談を受けたときに、軽く背中を押す。これは、本人が「やりたいけれども、何かしらのリスクに対して不安がある」場合にはとても有効な後押しになる。

しかし、それが「なんとなく」という漠然とした場合、本人の本気度によっては無責任な後押しにもなる。結果、「他人に言われたから、とりあえずやってみたけど、上手くいかない」と途中であきらめてしまったり、何かあれば他人のせいにしてしまったりする。

だから、本人が「やりたい」と思っていなさそうなことに対して、私は後押ししないようにしている。あと、明らかにその挑戦がその人にとって荷が重い無謀だと思える場合。それは、ある意味、焚き付け詐欺だと思うからだ。そのかわり「やりたい」という人を後押しするときには、責任をもって手も口も出す。

私のバーレスクデビュー作は、引きずり込んだ張本人である部長と一緒に作った。振りや構成はしっかりアドバイスをもらったが、選曲や衣装、小道具は自分の伝えたいテーマから私が決めた。
おかげで何とかアマチュアの域ではあるけれども、デビューすることができた。

ちなみに、当初2日予定であったもう一日は、11月に振り替えられることになった。

11月に同じ演目を再度、人前で披露させていただくにあたり、デビュー舞台で感じた
「もうひと手間、もう一歩踏み込んだ作品に仕上げたい」
という反省点を自分なりに付け足して、衣装や小道具も、表現も一部、別物に変えた。

「なんか、表現力がグッと上がりましたね」

最初の全体練習で先輩部員から、そうお褒めの言葉を頂戴できたのも、
誰かのお仕着せではなく、自分があの時に「伝えたい」と強く感じていたこと

「ちょっと立ち止まって、現実で起きてることをよーく見てみて」

そこから創り出した演目だったから、だと言える。

何かをどうしても伝えたい。

その手段の一つとして、舞台という場所があり、ダンスという表現方法があるのだ。

これを学べたのも、自分の枠には無かった、バーレスクに挑戦したおかげである。

想定外の無茶ぶりから学べる事

もう一つ、バーレスクをやってみようと決めたのは、「自分なら多分やらないこと」を敢えてやってみるというのもあった。

「えー、無理」と感じることを敢えて挑戦することで、自分が選ぶことのなかっただろう経験もできる。たとえ、失敗であったとしても自分の能力の幅は確実に広がる

自分の得意、好きなことだけで生きていくには、「これは自分には難しい」という苦手を知ることも重要だし、苦手だからこそ、どうすればいいのかを工夫することにも繋がる。

実際、人前で堂々と脱げる身体をしているのかという部分には、半分イエスと言える。バーレスク部に入って、かなり体を絞ってきた。腹筋がうっすらと縦のラインを浮き出すくらいになっているので、それを見せびらかすような演目をしろと言われれば、出来なくもない。

でも、これからも「脱がないバーレスク」というくくりで私はバーレスクをしていく。

単純に、そこで異質なバーレスクになるからだ。

「脱ぐ」というのは、とても簡単で難しい行為だ。そこに恥じらいという感情が湧くからである。そして、人間という生き物の本能、オスメスを判断する部分に直結している。だからこそ、皆、他人のヌードに興味関心があるのである。

見せびらかすように脱げば、当然、注目を引き付けることができる。

どのタイミングで何を脱ぐのかが構成するうえで重要なポイントになる。

それは、この半年バーレスクやストリップという、肉体をメインとしたショーをじっくりと注意深く見てきて実感する部分である。

脱いで注目を浴びて終わり、というだけでなく、言葉を超えたコミュニケーションとしてバーレスクをしてみたい。

今の世の中に対して、伝えたいことだけは人一倍ある。
その機会のためなら、人目を浴びて興味関心を引くぐらい、仕方ないがやってやろうじゃないか。

そんな世のため人のために聞こえる、正しい承認欲求の使い方を四十路になって体得するなんて。


これも全て、部長の計画的犯行のおかげである。また一人、この先ずっと頭が上がらない存在が増えた。

以上が、私の42歳の誕生日に起きた不意打ち事件のあらましである。