*この記事は、2021年9月に書いたものを加筆修正したものです。
その日、ついに事件は起きた。いや、始まったという方が正しいかもしれない。
「バーレスク、やりましょう!」
それは、本当に本当に寝耳に水な提案だった。
バーレスク。知らない人も多いだろうけれども、ショーパフォーマンスである。
元々は16世紀ごろに始まった大衆娯楽の一つ。多くはシェイクスピアの戯曲をベースに、社会を風刺するパロディを中心とした、ダンスや手品、歌などで構成される、言わばガス抜きの役割を果たす娯楽として、当時大変盛り上がったようだ。テレビもラジオも、ましてやインターネットすらない時代には、演劇や合奏などの生身の人間が目の前で何かをやって見せるというライブ型のエンターテイメントか、絵画や文章、彫刻などのいつでも見ることができる作品という2つのパターンでしか、表現活動というものはなりたたなかったのである。
しかし、時代は変わり、今のバーレスクというのは当時とずいぶん違う。
「グレイティストショーマン」のような映画で見るショービジネスという世界は、華々しくてまぶしいイメージがあると思う。とにかくいかに観客の目をくぎ付けにし、興味関心を引く派手な演出が必要。いかに、非日常を味わうか。これらは1900年代のアメリカで始まった流れだ。
その流れから、現在、ショービジネスでのバーレスクというのは、最大限まで肌を露出し、あたかも欲を挑発するような大胆なパフォーマンスをする、セクシーヌードダンス的なポジションに収まっている。
それを、このお人は、私にやらないか? と無茶ぶりな提案をしてきたのだ。
まさか、自分の誕生日に。そんな無茶ぶりが来るなんて、5分前、いや1分前の私には想像すらつかなかった。
せめて、私に無茶ぶりを吹っかけてきた人が、ただの飲み友達やたまたま居合わせた酔っ払いのおっさんであれば、話はシンプルに終わったし、事件にもならなかった。
音楽喫茶ヲルガン座バーレスク部、部長 ゴトウイズミ。
バーレスクが好きすぎるがあまりに、自らが部長となって、バーレスク部というチームを作り上げている、ミュージシャンであり、劇作家であり、経営者。
そんな筋金入りのショービジネス歴15年以上のプロから、無茶ぶりを賜ったのである。
おそらく確信犯。
その場で思いついた犯行ではなく、ずっと決行するチャンスを狙っていたに違いない。
なんて誕生日だ。
私にしてみれば、不意打ちバーレスク事件としか言いようがなかったこの日から、42歳からの挑戦がいきなり始まったのである。
バーレスクって、なにそれおいしいの?
バーレスクを見せて、お金を稼いでいる人の多くは、だいたい何かしらのダンスをしていた人が多い。
私がバーレスクというスタイルのパフォーマンスを初めてみたのは、音楽喫茶ヲルガン座の周年イベントでのことだった。その前から、バーレスクというものがあることは知っていた。
人前で脱げる上に、踊れるってすごいなぁと完全に、お客目線での感覚である。
実は、当時、ヲルガン座にはさほど通ってはいなかった。私の行動範囲からは、少し外れたところにあったからである。そんな状況で何故、参加したかというと、私がお世話になっているあるパフォーマーさんが、そのイベントのメインゲスト出演者だったからである。当時、私のひそやかで小さな野望のひとつとして、そのパフォーマーさんのショーイベントをヲルガン座に呼びたいというのがあり、偶然、たまたま、私の誕生日にその野望が実現するというラッキーな流れでもあったのだ。
「あ、この子もゲストで出るんだ」
イベントのフライヤーを見て、知り合いのバーレスクダンサーも関西から来るのだと知った。その周年イベントの数か月前、アメリカで開催された世界的なバーレスクコンテストに彼女がコンテスト主催者からの招待枠で参加していたとツイッターで見ていたので、どんなショーを彼女が見せてくれるのかも、楽しみでもあった。
プロの芸はすごいと目の当たりにした上で
照明が暗転し、音楽が流れ始める。
和傘に振袖。
色街の花魁に扮するような出で立ちで舞台に立つ彼女。
しゃなりしゃなりと動くたびに、高島田に結った髪に刺さった簪の飾りが揺れる。
傘を開いて回転させると、花吹雪が舞う。
曲のリズムや旋律に合わせて、堂々と、しかし勿体つけながら、彼女は踊り、肌を露わにしていく。
バーレスクに欠かせない小道具として、ペイスティと呼ばれるアイテムがある。いわゆるニップレス、乳首が見えないように貼り付けて隠すためのもので、そのペイスティの装飾も演目を左右する重要なアクセサリーになる。
シミーという、身体を小刻みに揺らすバーレスクならではの動作があるのだが、このシミーが上手だと、ペイスティの先についたフリンジがグルングルンと回転するのである。胸の先にプロペラが付いて回転しているように見えるので、とても盛り上がる。子供が見たら、間違いなく「あれやりたい!」と叫ぶこと間違いなしの技である。まさに肉体芸。
この日の彼女の見せ場は、まさに、そのプロペラ技だった。
「スゲー。さすがアメリカに呼ばれる人は違うわ~」
ショーを見終わった直後の感想は、そんな感じだった。
彼女が日本舞踊をしていたとか、知り合いだからというのを差し引いても、彼女のバーレスクは凄いなと感じた。しかし同時に、こうも思ったのだ。
「私には、出来ないな」
そう思ったバーレスクを、まさか、それを見た同じ日に、それを見た会場で、そのイベントを企画した張本人から、「やりませんか?」と勧誘されるなどとは、本当に夢にも思わなかった。
2021年8月3日火曜日。
この日が、私のバーレスクデビューの日になった。
半年に一度のバーレスク部員全員が出演する合同発表会。
Tomorrow Burlesque。
本当は、6月に開催の予定が、緊急事態宣言で8月に延期となり、さらに3日と5日の二日開催する予定だったのが、県からの要請が出され、8月4日からまん延防止集中期間開始のために3日だけ開催となった。
まるで、覚悟が決まりきらない私の内面が反映されたような展開だとも今は思う。
前日の2日に最初で最後の通し稽古をして迎えた8月3日。
昼過ぎから、会場の設営でと簡単な最終確認を行って、メイクに入る。ステージ事の舞台裏は、どんな演目でも同じだ。本番前直前の緊張と、ワクワクとが入り混じった独特の熱気。
中学校の時に出た学生ミュージカル、高校時代の演劇部。10代の頃に経験した時と何ら変わらない、舞台裏という空気をまたこうして体験する羽目になるとは、などと随分のんきなことを考えながら、普段の私ではないステージ用の濃い顔つきへと顔を作っていく。
夜19時。開場と同時に、ご予約のお客様が押し寄せる。過密を避けるために、本来の定員数を割った席数ということもあり常連さんがほとんど。受付や、司会、物販などもバーレスク部員全員で担当して行う。検温と代金の受け取り、ドリンクなどの注文などを皆で行っていくうちに、開園の時刻となった。
19時半。部長の司会から合同発表会が始まった。
4人づつ、3部構成のスケジュールのなか、私は2部の2番手。受付の時に着ていた服から、ショーの衣装に着替えても、私の心は穏やかだった。
承認欲求をどう受け入れ表現するのか
私「わかりました。やります。でも、脱がないバーレスクでもいいですか?」
部長「いいですよー。脱がないバーレスクもありますから。頑張りましょう!」
私「はい、よろしくお願い致します」
そんなやり取りから始まった、不意打ちバーレスク事件。
脱がない、ということが演目を作るのに、かなりハードルを上げたということを思い知るのが、本番1か月前。
たった5分の持ち時間の中で、何を伝えたいのか。
脱がない理由というものを、どう表現するのか。
それを試行錯誤する本番までの2週間。
それでも、「やらない」という選択肢は無かった。
元々「私を見て!」「私に反応しろ!」という承認欲求は、薄いほうだと思う。こうして文章を書いたり、SNSをしたりしている時点で、薄いとは言えないのかもしれないが、必要以上に悪目立ちするということに対して、ものすごく抵抗があった。
だから、最初にバーレスクを見たときに感じた
「私には、出来ない。無理」
というのは当時の素直な気持ちだった。
踊りに自信があるわけでなし、ショーの演者として有名になりたいとも思わない。
ましてや、バーレスクなんてほとんど見たこともない、ど素人。
だから「バーレスクをやる」「バーレスクをやらない」という単純な二択だったら、答えは後者なのだ。本来であれば。
でも、結局、私はバーレスク部の部員として、バーレスクデビューをした。
理由は二つ。
一つは、長年プロとしてショービジネスの世界を生き抜いてきた独自の審美眼を持つ人からの勧誘だったということ。
「you、やっちゃいなよ」という一言が引き起こす勘違いは、きっと、どこのショー現場でも起きていると思う。最初は「えー、私なんか」などと尻込みしていた子が、場数を踏み、チヤホヤされて、他人からの注目を浴びるという快感を覚えることで、花開く場合もあるだろうが、そんなの本当に素質があり、きちんと努力できる場合しか生き残れない。
他人からの注目を浴びるということは、承認欲求を一瞬で満たしてくれる。その数が多ければ多いほど、「私を必要としてくれる人がいる」という喜びを感じられる。
だからこそ「注目を浴びる」というのは、ある種の強烈な麻薬なのである。
その麻薬が欲しくて、いろんなものを引き換えにしていくことで起きているトラブルはたくさんある。SNSでの過激な投稿なども、その一つだろう。
「自分を知ってもらってナンボ」なショービジネスで生き残るということは、歌でも踊りでも、演技でもなんでも、「この人にしか出せない技」「この人しか持っていない何か」という特出した技能と存在感というものを持っている証拠である。それと、自分をどこまでも客観的に見られるバランス感覚。これらを持っているから、一世風靡で終わることなく、長年、ファンとともに自分の表現活動を続けられるのだと知っている。何故ならば、私自身も、業種は違えども人気商売の世界で5年以上もまれ続けてきたからだ。
「やりたいならやればいいじゃん!」
私たちは、つい他人が行動を起こすか、起こさないかで相談を受けたときに、軽く背中を押す。これは、本人が「やりたいけれども、何かしらのリスクに対して不安がある」場合にはとても有効な後押しになる。
しかし、それが「なんとなく」という漠然とした場合、本人の本気度によっては無責任な後押しにもなる。結果、「他人に言われたから、とりあえずやってみたけど、上手くいかない」と途中であきらめてしまったり、何かあれば他人のせいにしてしまったりする。
だから、本人が「やりたい」と思っていなさそうなことに対して、私は後押ししないようにしている。あと、明らかにその挑戦がその人にとって荷が重い無謀だと思える場合。それは、ある意味、焚き付け詐欺だと思うからだ。そのかわり「やりたい」という人を後押しするときには、責任をもって手も口も出す。
私のバーレスクデビュー作は、引きずり込んだ張本人である部長と一緒に作った。振りや構成はしっかりアドバイスをもらったが、選曲や衣装、小道具は自分の伝えたいテーマから私が決めた。
おかげで何とかアマチュアの域ではあるけれども、デビューすることができた。
ちなみに、当初2日予定であったもう一日は、11月に振り替えられることになった。
11月に同じ演目を再度、人前で披露させていただくにあたり、デビュー舞台で感じた
「もうひと手間、もう一歩踏み込んだ作品に仕上げたい」
という反省点を自分なりに付け足して、衣装や小道具も、表現も一部、別物に変えた。
「なんか、表現力がグッと上がりましたね」
最初の全体練習で先輩部員から、そうお褒めの言葉を頂戴できたのも、
誰かのお仕着せではなく、自分があの時に「伝えたい」と強く感じていたこと
「ちょっと立ち止まって、現実で起きてることをよーく見てみて」
そこから創り出した演目だったから、だと言える。
何かをどうしても伝えたい。
その手段の一つとして、舞台という場所があり、ダンスという表現方法があるのだ。
これを学べたのも、自分の枠には無かった、バーレスクに挑戦したおかげである。
想定外の無茶ぶりから学べる事
もう一つ、バーレスクをやってみようと決めたのは、「自分なら多分やらないこと」を敢えてやってみるというのもあった。
「えー、無理」と感じることを敢えて挑戦することで、自分が選ぶことのなかっただろう経験もできる。たとえ、失敗であったとしても自分の能力の幅は確実に広がる
自分の得意、好きなことだけで生きていくには、「これは自分には難しい」という苦手を知ることも重要だし、苦手だからこそ、どうすればいいのかを工夫することにも繋がる。
実際、人前で堂々と脱げる身体をしているのかという部分には、半分イエスと言える。バーレスク部に入って、かなり体を絞ってきた。腹筋がうっすらと縦のラインを浮き出すくらいになっているので、それを見せびらかすような演目をしろと言われれば、出来なくもない。
でも、これからも「脱がないバーレスク」というくくりで私はバーレスクをしていく。
単純に、そこで異質なバーレスクになるからだ。
「脱ぐ」というのは、とても簡単で難しい行為だ。そこに恥じらいという感情が湧くからである。そして、人間という生き物の本能、オスメスを判断する部分に直結している。だからこそ、皆、他人のヌードに興味関心があるのである。
見せびらかすように脱げば、当然、注目を引き付けることができる。
どのタイミングで何を脱ぐのかが構成するうえで重要なポイントになる。
それは、この半年バーレスクやストリップという、肉体をメインとしたショーをじっくりと注意深く見てきて実感する部分である。
脱いで注目を浴びて終わり、というだけでなく、言葉を超えたコミュニケーションとしてバーレスクをしてみたい。
今の世の中に対して、伝えたいことだけは人一倍ある。
その機会のためなら、人目を浴びて興味関心を引くぐらい、仕方ないがやってやろうじゃないか。
そんな世のため人のために聞こえる、正しい承認欲求の使い方を四十路になって体得するなんて。
これも全て、部長の計画的犯行のおかげである。また一人、この先ずっと頭が上がらない存在が増えた。
以上が、私の42歳の誕生日に起きた不意打ち事件のあらましである。
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